分子スケール研究開発チーム
チームリーダー
木寺 詔紀
生命活動の最上層が生物個体レベルだとすると、最下層にあるのが遺伝子です。分子スケール研究開発チームが研究対象としているのは、この最下層に最も近い分子の世界です。遺伝子は、例えて言うなら数多くの情報が蓄積されたハードディスクのような存在であり、実際に生命活動を行うためには、そこから何か働くものに変換されなければいけません。そこで変換されてできるのがタンパク質です。分子には、遺伝子の実態であるDNAをはじめ、タンパク質に焼き直されるときに出てくるRNAやそこに関わるいろいろなものがすべて含まれますが、そのなかで最も中心となる分子がタンパク質です。このタンパク質がいくつも集まって、いろいろな仕事をしているのです。そして、その先には細胞があり、それが積み重なって組織・器官が形成され、個体レベルにつながります。では、こうした個体レベルの生命にとって、タンパク質はどんな役割を果たしているのでしょうか、それが大きな問題です。そこで、生命活動の最も基礎となる分子の世界を、できるだけ原理的なレベルで、スーパーコンピュータを使った分子シミュレーションという手法を駆使して、実際に働かせてみながら理解していこうというのが、私たちの取り組みです。
分子シミュレーション手法の一例として、ATP合成酵素についてお話しましょう。ATP(アデノシン三リン酸)は、生物体にとって最も重要なエネルギー源です。有機物から取り出したエネルギーをいったんATPというエネルギー化合物として蓄え、必要に応じてATPを分解するときのエネルギーをさまざまな生命活動に利用しています。このATP合成プロセスの過程にATP合成酵素が関わっています。この酵素は、言ってみればタンパク質が集まってできた分子機械です。ちょうど細胞膜に刺さったような状態で、外側から内側への水素イオンの移動(プロトン移動)を駆動力として回転運動が生じ、それがタンパク質の構造変化のエネルギーに変換され、そのエネルギーによってATPが合成されるという、かなり高度な機能を持っています。こうした機能は実験的に確認されているのですが、それを原理的なレベルで説明しようとするのが、分子シミュレーションです。どういう原理で理解するのかというと、大まかに2つの方法が用いられます。ひとつは化学反応を第一原理的に扱うことができる量子力学のレベルの量子化学計算(QM)、もうひとつは動きを扱うことができる古典力学のレベルの分子動力学計算(MM)です。ATP合成酵素の場合、例えばプロトン移動は完全に量子化学で扱うべき反応です。高分子の回転という力学的な運動は分子動力学計算で理解できます。さらに、構造が変わることによってADPにリン酸が付いてATPが合成される過程は、量子化学計算が使えます。このように、2つの方法を用いることによって、ATP合成酵素の働きが原理的に理解できるわけです。そして、コンピュータ上に構築したATP合成酵素のようなタンパク質複合体を動かしたり、反応を起こさせたりしながら、計算機実験をしていきます。そうすることにより、ある変化が起きたときにそのタンパク質複合体がどんな応答をするかといった、さまざまな条件下での振る舞いなども明らかになります。つまり、実験では困難な新しい発見や予測も可能になるのです。
さて、ここで問題になるのが計算機資源の問題です。コンピュータ上でこうしたシミュレーションを行うためには、膨大な計算量が必要です。第一原理計算(量子化学計算)からすべてを計算しようとしたらスーパーコンピュータを使ってもなかなか追いつけません。そこで、タンパク質の機能発現の全体像を見ていくために、私たちが取り組んでいるもうひとつの方法が粗視化モデル計算(CG)です。例えば、タンパク質を構成するアミノ酸ひとつひとつの働きをモデル化して、アミノ酸をひとつの球に置き換えてしまうのです。このような粗視化モデルを使うことで、分子レベルを3つの階層QM・MM・CGで表現しようとしています。粗視化モデル計算という方法は、分子シミュレーションの世界では新しい方法です。そのため、粗視化の方法論の確立や新しいソフトウェアの開発、さらに、QM・MM・CGの3つの方法を結合させることによるマルチスケールシミュレーション実現のための方法論の開発(階層接続)は、私たちのチームにとって非常に大きな課題となっています。そして最終的には、もうひとつ上の階層である細胞レベルにまでつなげていく、それが私たちの大きな目標です。言い換えれば、細胞レベルで起きていることを、分子のレベルから説明していこうとしているのです。
BioSupercomputing Newsletter Vol.1