BioSupercomputing Newsletter Vol.4

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SPECIAL INTERVIEW
バイオスーパーコンピューティングが拓くライフサイエンスの未来

経験重視の観察型医療から 予測型医療への転換を図り、 理論医学の基盤を構築するために

後藤 信哉

東海大学医学部内科学系(循環器内科)教授
東海大学医学研究科バイオ研究医療センター代謝疾患研究センター長
東海大学総合医学研究所代謝システム医学部門長
後藤 信哉

予測的、個別的な“前向き”の医療へ向けて

今日の医療は経験主義的で、論理性、予測性に乏しいということを、よくお話しになられていますが。

●後藤(敬称略) 臨床の医師として数多くの循環器疾患の診療に携わっている私がこんなことをいうと、患者さんたちにはショックかもしれませんが、医師が医療を行う場合、例えば物理学的な理解に基づいて原子力発電所を制御するように、人体の仕組みや疾病について科学的に完全に認識し、確実な予測に基づいて医療を行っているわけではないのが現状です。 生命現象についての本質的で精緻な理解に基づく医療介入はできないのです。それは、医療の進歩の歴史を見れば明らかです。医師は、病気の人に何もしないとどうなっていくかを経験的に知っています。 そこで、そのまま放置せず、有効と思われる何らかの介入を行い、予後(病後の経過)がよいか悪いかを観察することによって、その介入の是非を評価することを繰り返しています。 さらに、別の介入を行った場合には結果はどうなるか、との比較を繰り返しながら医療は進歩してまいりました。 経験の評価は医師個人の感覚で行われる場合もあり、多数の症例を集めて数値データベースとして評価する場合もあります。 数値データベースを一定の基準に基づいて評価する後者の方法はEvidence BasedMedicineとも呼ばれています。 しかし、いかに科学的な方法論を取り入れたEvidence Based Medicineであっても、過去の経験の蓄積を数値化するという方法論であることにかわりはありません。 数値データベース化されているとはいえ、常に“後ろ向き”の経験に基づいて未来の方向性を決めるのが今までの医療であることには本質的に差はありません。
 物理学の発展の歴史に置き換えてみるなら、今日の医療は、まだガリレオの時代にあるといってもいいでしょう。 ガリレオは高い場所から重い球と軽い球を同時に落として、落下にかかる時間は物の重さに関係がないことを明らかにしました。 実験によって力学の基礎を開いたわけですが、その先にある統一的な原理、つまり地球の重力、さらには天体の運動さえも支配する万有引力の法則を導き出すことはできませんでした。 やがてニュートンは、ガリレオらが見つけた物体の運動を数学的に論じるなかから万有引力の法則を導き出し、近代物理学の基盤を築きました。 今日の医療も、人体を支配している生命現象の普遍的な法則が分からない状況で行われています。 医師たちは生命現象の変化として現れる患者の症候と治療介入の有無によるその変化を単に記述して、経験を積み重ねているだけなのです。 「医療介入を受けた場合と受けなかった場合の結果」しか分からないのですから、医療介入の善悪も患者集団に対する評価しかできません。 医療の世界に現代の物理学、化学と同様の科学を導入するためには生命現象の本質を理解し、さらに個人差を規定する要素を明確にした上で構成論的な前向きの「理論医学」のような学問を構築する必要があります。 そのためには、生命現象を要素に還元し、その要素と要素の間の因果関係を緻密に数式化して理解することが必要です。 医療の世界にも「論理的予測」や「個別化」を可能とする学問体系が必要です。 そうでなければ、過去の経験の蓄積により評価された医療から一歩も先へ進めません。

なぜ、経験主義的な医療しかできないのでしょうか。

●後藤 一言でいえば、人体を構成する生命現象があまりにも複雑で、疾病の発症、進展に関与する因子が多過ぎるため、私たちの頭脳ではそれらの因子間の因果か関係を精密に理解できないことが問題の本質であると思います。 個別の患者さんにとって最適の治療を行うためには、生命現象の本質、さらに個人差を規定している因子とそれらの因果関係を精緻に理解しなければなりません。 個人の設計図である遺伝子は個人毎に異なるし、個々の患者さんの環境への曝露、生活習慣も異なります。 ある遺伝子を持つ人が、ある条件のなかで成長するとどんな疾病を起こしやすい人体になるかといった、分子から細胞を経て人体までを構成論的な理解ができるようにならないと、未来予測可能な医療、個別医療を科学的に行うことはできません。 また、膨大な遺伝子のわずかな部位の差異の組み合わせが、個別的に最適な治療法を規定する仕組みを理解するためには、遺伝子情報、環境への曝露の情報、生活習慣情報、症候情報などの時間変化を包括した膨大な情報を同時に扱っていく必要があります。 臨床医学を緻密な21世紀の未来型医学の基盤となる情報学として再構成するためには、高速スーパーコンピュータが絶対に必要です。 私たちは、すでにパーソナルゲノムという個人差を規定している人体の設計図の情報を知っています。 その設計図が蛋白質をつくる仕組みについても理解しています。しかし、産生された蛋白質が細胞を構成する仕組みは理解できていません。 分子である薬剤を投与したとき、生体分子の機能がいかに変化するかは理解できても、その変化がどのように細胞応答、人体スケールの生体応答に構成されるかの仕組みが理解できていないのが実態です。 多数分子の物理的、化学的相互作用により細胞、人体が構成される仕組みを理解すれば生命現象を正確に理解できるかも知れません。 それができることで、初めて真の意味で科学的な医療が可能になるのだと思います。

京速コンピュータ「京」に最も期待されているのは、どのようなことでしょうか。

●後藤 私たちが生命現象を理解するためには、その生命現象を再現することが重要と考えています。 ひとつの細胞を構成する全ての物質を、実際の細胞と同じように空間的に配置すれば細胞再構成は原理的に可能ではないでしょうか。 現時点では細胞を構成する物質があまりに多く、その情報を再構成できる基盤技術もありません。 しかし、細胞を構成する物質の配置情報を精緻に計測する技術を確立し、その情報を高速スーパーコンピュータ上に仮想的に配置すれば仮想的な細胞が再現できるはずです。 細胞同士が集積して組織、臓器を構成する様子は顕微鏡レベルで観察できます。そうしたアプローチこそがシミュレーション生物学の基本であり、京速コンピュータは、それを実現させるための重要なツールです。
 もうひとつ、私たちが最も期待しているのは、私たちが京速コンピュータを使って予測可能な医療、個別医療ができることの事例を示していくことによって、これまでの医療や医学というものが経験の積み重ねに過ぎず、全く本質を理解していないのだということを、多くの医師や医療関係者に理解してもらうことです。 さらに、「未来の生命科学、将来の医療や医学は、こういう方向に進んでいくのか」ということが分かってもらえると思うのです。 いくら私が「今はガリレオの段階だ」と話しても、現場の人たちにはなかなか分かってもらえません。 しかし、具体的な例を示すことができれば、「これからは発想の転換をしていかなければいけないのだ」ということが伝わるはずと期待しております。

血小板細胞シミュレーターの研究開発

現在取り組んでおられる血小板細胞シミュレーターとは、どのようなご研究ですか。

●後藤 血小板細胞をボクセルで分割して、各ボクセルに細胞内小器官、膜蛋白などの性質を入れて血小板細胞を再構成しております。 分割数を増やせば、単一分子まで還元できると期待しています。 現時点でも、細胞膜の接着蛋白については、分子スケールの構造解析で得られた接着性の情報との連成をめざしています。 われわれが臨床医として、心筋梗塞の再発予防に行う抗血小板薬による治療は、血小板内のcyclo-oxygenase、血小板膜蛋白、受容体蛋白などの分子に対する介入なので、薬剤による分子スケールの介入が血小板細胞の挙動を如何に変化させるかのシミュレーションをめざしています。 最終的には、多数の血小板細胞の集積により心臓、脳などの重要臓器を灌流する臓器灌流動脈が血栓性に閉塞するか、その閉塞を分子スケールの薬剤介入により阻止することができるかをシミュレーションしたいと思っています。
 また、血小板細胞を構成する分子には、特殊な接着様式を有する接着蛋白など生物学的特徴の明確な分子があります。 そこで、血小板細胞シミュレーターは、分子スケールと細胞スケールの連携に役立つと考えています。 さらに、多数の血小板細胞の集積が心筋梗塞などの原因になることも分かっていますので、細胞スケールと臓器・全身スケールの連携にも役立ちます。 分子と血小板細胞の間の関連をシミュレーションで論理的に連成させ、さらに、マイクロメートルスケールの血小板細胞がミリメートルスケールの血管の閉塞にいたる過程、つまり細胞が臓器・全身に与えるインパクトの定量的なシミュレーションを行うことによって、分子スケールと細胞スケール、細胞スケールと臓器・全身スケールという2段階の連成基盤を、血小板細胞を軸として作成していく取り組みでもあるのです。
 血小板細胞は核がなく、分裂しません。また、新たな物質の産生も少ない。 機能も止血、血栓の形成に特化しています。構造や機能が比較的単純であるため、シミュレーションによる再現に向いていますので、血小板細胞を用いてひとつの実例を示したいと考えています。 また、血小板細胞が心筋梗塞や脳梗塞の発症に重要な関わりを持っていること、血小板細胞の機能を低下させると心筋梗塞や脳梗塞の発症が抑えられることも臨床試験で明らかです。 臨床医学の観点では薬剤による分子スケール介入と臓器、全身スケールのアウトカムの関連は明確です。 あとは、物理学や工学の視点からも誤りのないシミュレーションができるかどうかです。 とはいえ、生体細胞は非常に複雑で、精緻なシミュレーションを行うのは極めて難しい。 実際の生体のなかの情報を取ってくることと、コンピュータ上にモデルをつくることを、まさに車の両輪のように合わせて進めていかなければなりません。 コンピュータに入れ込む情報も質的にまだ十分とはいえませんし、その定量性も低いといった課題もあります。 血小板細胞は比較的容易とは言ってもプロジェクトとしては非常に難しいチャレンジです。

シミュレーターを開発していく上で、いちばんのご苦労は。

●後藤 私たちが全体像を理解していないことが最大の問題と認識しています。 京が利用可能となったとしても、まだ複雑な生体の全てを再現することはできません。 何らかの単純化が必須です。 全体像をつかんでいないわれわれの行う単純化は、まったく的外れかも知れません。 計算資源には限りがありますから、私たちは自分たちの頭のなかで、どの情報を切り捨てるかを選んでいます。 コンピュータというと全て自動のようですが、重要な情報を取り込んでモデルを作るのは人間の頭脳の働きです。 モデル化が適切な情報選択によりできているのか否かが分からないというのが一番の悩みです。 医学で求める人体の神秘を宇宙の神秘に例えるのであれば、現時点での私たちの悩みは広大な宇宙のうち、地球の周辺しか知らない故の悩みなのか、太陽系までしか知らないのか、銀河系まで知っているのか、それとも実はすでにかなりのことを知っているのか、それが分からないのです。 太陽系しか分からなくても、宇宙を支配する基本原理は明らかにできるかもしれません。 現時点では、確実に分かっている原理を使ってどこまで、人体の現象、病気の転帰を予測できるかやってみることです。 そして、予測した結果の妥当性を実証していくことにより予測の妥当性が分かります。 真実の姿が見えない対象に対するシミュレーション科学では予測と実証の繰り返しは必須です。 真実が見えないなかで自分の行ったモデル化の妥当性を繰り返し明らかにするという点ではチャレンジングな学術分野です。 私は臨床の医師でもあり、実際の患者さんも診ています。 臨床医学の多くが自分の経験と感触に依存していることが毎日体感できています。 また、科学的根拠を見い出せないなかで、自分の経験と感触に基づいた個別化の医療を実践しています。 多くの医師が経験的に行っている、科学に基づかない個別化医療を論理化、デジタル化するにはどうしたらよいか、その方向性の選択にいつも頭を悩ませています。

取り組みに対する医療の現場の反応はいかがですか。

●後藤 私が伝えたいことの意味は、みなさんにご理解いただけていると思っています。 特に、学会のリーダー的な立場にある方々は「その通り、そういう方向に向かっていかなければいけない」といってくださいます。 今日の経験の積み重ねの数値データベース化による医療の科学化という、われわれの世界でEvidence Based Medicineという方法が行き詰っていることも、世界学会のリーダー的立場にある人が共通に認識していることです。
 医療現場、医学教育は経験の数値データベースによる情報の洪水に苦しんでいます。 予測的な医療、個別的な医療が必要であるという発想の転換を現場に求めるのは困難です。 医療現場の人にわれわれの向かう方向の妥当性を理解いただくためにも、ひとつの例として、血小板細胞シミュレーターを用いた抗血小板治療の実例を示すことは重要です。 生命現象であっても、究極的には物理・化学現象の集積であり、その記述言語は数学であるということを多くの人たちに理解してもらいたいと思います。 そして、若手の医師や研究者、学生たちがシミュレーション医学の分野に参入してくれることを期待しています。 京速コンピュータは、そのための入り口でもあると思っています。

血小板細胞

BioSupercomputing Newsletter Vol.4

SPECIAL INTERVIEW
経験重視の観察型医療から予測型医療への転換を図り、理論医学の基盤を構築するために
東海大学医学部内科学系(循環器内科)教授
東海大学医学研究科バイオ研究医療センター代謝疾患研究センター長
東海大学総合医学研究所代謝システム医学部門長 後藤 信哉
シミュレーション科学の活用で栄養学や健康管理の新たな可能性が拓かれることに期待
味の素株式会社 ヘルスインフォマティクス班
グループ・エクゼクティブ・プロフェッショナル員 安東 敏彦
研究報告
多剤排出トランスポーターの機能を粗視化分子シミュレーションで実証(分子スケールWG)
京都大学理学研究科 高田 彰二/姚 新秋/検崎 博生
時空間を考慮した細胞シミュレーション(細胞スケールWG)
理化学研究所 次世代計算科学研究開発プログラム 須永泰弘
強力集束超音波による低侵襲治療のためのHIFUシミュレータの開発(臓器全身スケールWG)
理化学研究所 VCADシステム研究プログラム 沖田 浩平
大規模数理モデル構築を目的とした共有モデル開発プラットフォーム:PLATO(脳神経系WG)
①理化学研究所 次世代計算科学研究開発プログラム
②理化学研究所 脳科学総合研究センター
稲垣 圭一郎 ①/観音 隆幸 ②/ Nilton L. Kamiji ②/槇村 浩司 ②/臼井 支朗 ①②
報告
BMB2010(第33回日本分子生物学会年会 第83回日本生化学会大会、合同大会)におけるワークショップ開催報告
生命体統合シミュレーション ウィンタースクール2011
理化学研究所 次世代計算科学研究開発プログラム 石峯 康浩(臓器全身スケールWG)
東京大学医科学研究所 浦久保 秀俊(脳神経系WG)
理化学研究所 次世代計算科学研究開発プログラム 須永 泰弘(細胞スケールWG)
理化学研究所 次世代計算科学研究開発プログラム 舛本 現(開発・高度化T)
理化学研究所 次世代計算科学研究開発プログラム 三沢 計治(データ解析WG)
理化学研究所 次世代計算科学研究開発プログラム 宮下 尚之(分子スケールWG)
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