東京大学大学院 工学系研究科 機械工学専攻
特任研究員
佐々木 明
●佐々木(敬称略) 長年、日立メディコという会社で超音波診断装置の設計開発に従事してきました。1980年代後半に登場したデジタル超音波診断装置は、1990年代半ば以降急速に発展し、より多くの情報を臨床診断の現場に提供できるようになり、その性能向上とともに適用範囲も大幅に広がりました。そして、5年ほど前には、世界的な動きとして、超音波が診断だけでなく治療に活用されるようになり、日本でもやっていかなければいけないということで、超音波治療システムの開発に携わってきました。そして、2010年3月に会社を定年退職し、6月からこちらに参りまして、超音波を使ったHIFU(ハイフ:強力集束超音波 HighIntensity Focused Ultrasound)治療システムの開発に取り組んでいます。これまでの企業での経験を活かして、「産」と「学」とのインターフェイス的な役割を果たすことが、私の仕事と思っています。
●佐々木 HIFUは、超音波を体内の1点に集め、その集束した部分だけを高温にすることによって治療を行うもので、「高密度焦点式超音波治療法」とも呼ばれています。たとえば、現在の癌治療には薬剤を用いる治療や手術がありますが、どちらも大きな苦痛やストレスが伴います。しかし、HIFUは体を切る必要もありませんし、抗癌剤のような苦痛もありません。午前中に治療を受ければ、午後には帰宅できます。また、放射線治療は1回しかできませんが、HIFU治療は何度でも繰り返し治療が可能であるといった長所もあります。また、現在研究が進められているのが、超音波を使ったDDS(Drug Delivery System)型治療です。これは、血管を通して、薬剤を内包したミセルを癌などの部位に集めて、その粒子を微弱な超音波で破壊させて局所治療を行うというものです。このように、HIFU治療システムには、大きな可能性が広がっています。ところが、現在日本の企業は、研究は進めているものの、その実用化や製品化には消極的です。
●佐々木 安全性の確保という問題が一番のネックになっています。メーカーとしては、治療が失敗した時の責任問題を考えると、なかなか踏み切れないという事情があります。薬の場合はリスク・アンド・ベネフィットで、相応の効果が得られればよいというところがありますが、治療の場合は失敗が許されず、どうしても責任問題や補償の問題が生じますからね。もうひとつは、市場の問題です。超音波診断装置は多くの医療機関に広がり、市場性がよいのですが、治療となると、どうしても市場が限られてしまいますし、価格も高くなってしまいます。さらに、治療機器は必ず臨床評価をしなければなりません。その治験にかかる費用・期間・人手の問題を考えると、メーカーにとって非常に採算性の悪いものになってしまうわけです。ところが、世界の動きを見ると、すでに2002年頃にはイスラエルの企業が開発し、2004年にはFDA認可され販売され始めました。米国ではGE社が扱っています。フィリップス社も2011年に販売を予定していますし、シーメンス社も試作機を開発中で、2011年から治験を行う予定です。さらに、HIFU治療という分野を確立するため、欧米では、すでに2006年にFocused Ultrasound Surgery Foundationを設立し、研究開発を活発化させてきました。世界のビッグ3が、診断から治療にシフトして製品化を進めているのに、このまま日本が着手しなければ、海外の企業に100%市場を押さえられてしまう可能性があります。何とかして日本発のHIFU治療を推進していかなくてはいけないということで、日本でもコンソーシアムを立ち上げることになりました。今後、日本のHIFU治療システムが生き残っていくためには、日本が世界に勝てる戦略の仕組みを構築していくことが重要です。もはや国内の1メーカーが勝てばよいという時代ではありません。そのために、オールジャパンで取り組んでいこうというわけです。
●佐々木 何よりも治療の安全性を重視していかなければなりません。HIFU治療は、体の内部の目的とする部位だけを直接治療する方法です。確実な治療を行うためには、正確な画像診断とナビゲーション、そして生体シミュレーションが重要な鍵を握っています。まず、治療計画をしっかり立てるためにも、CT、MRI、US(超音波診断装置)、RI(核医学診断装置)を駆使してしっかりとした手術前画像診断を行わなければなりません。術中もリアルタイムで観察を行い、的確な誘導ナビゲーションを行うことが求められます。そして、直接体を開く手術と違い、このHIFU治療は、すべて画像でしか見ることができません。治療の効果判定も画像で行います。そのため、治療のプロセスを見ていくためにも、どうしても必要なのが生体シミュレーションです。
●佐々木 超音波は、音響インピーダンス(密度×音速)によって屈折・反射がおきるという特性があります。光と同じように、媒質の違うところに入ると曲がってしまうのです。したがって、生体内の脂肪、筋肉、臓器による屈折や音速の変化は、超音波のビーム特性や焦点位置のずれに影響を与えます。また、骨などでは超音波の吸収による熱変化が生じ、血流の多い部位では熱拡散も生じます。さらに、心臓のような臓器の動き、腸内ガスのような気泡の存在など、超音波は体内でさまざまな影響を受けて位相の乱れや音響的な乱れが起きます。とても一筋縄ではいきません。これらの影響を避けるためにも、治療計画では障害物を正確に計測し、最適化制御を行うことが必須です。そのためには、事前に生体の音響的な特性をしっかりとシミュレーションしておく必要があります。
●佐々木 そのひとつが超音波を発生させるトランスデューサーを含めた超音波ビームの最適化設計です。超音波が正確に目的の部位で焦点を結ぶように照射するためには、体表の皮膚、筋肉、脂肪、臓器を透過していく過程が重要になります。さらに大きな障害となる腸内のガスや骨を避ける手段も必要です。複数の素子で構成されるトランスデューサーには、事前に骨や気泡が存在する場所への照射を避けるように各素子ごとに制限を加えたり、遅延時間差を与えることで屈折補正するなどの方法で、目的部位に正確に照射する手法が研究されています。また、焼灼部位の温度上昇を予測し、照射位置を連続的に変えながら照射し、治療時間を短縮する方法も検討されています。従来のHIFU治療では、照射した後に熱を冷ます時間が必要で、治療時間が2 ~ 4時間かかりましたが、これを連続移動焼灼によって大幅に短縮化しようという試みです。こうしたHIFU焼灼の最適化設計や治療時間短縮のためのマルチ焼灼最適化設計の確立、副作用の最小化にも、シミュレーションが重要な役割を果たします。
●佐々木 ナビゲーションとシミュレーションがしっかりと確立すれば、HIFU治療の安全性は高まっていきます。その上で実験を行うことで、安心して治療が行えるところまで持っていきたいということです。ヨーロッパでは、すでに頭蓋骨内の脳腫瘍などの治療をやろうというところまで研究が進んでいます。頭蓋骨の屈折率を計算して、超音波を脳内の1点に合わせようというわけです。脳を開けずに治療ができるというのはすごいことですよね。発想は素晴らしい。実現させるのはなかなか難しいと思いますが、こうした研究では本当にシミュレーションが重要になってきます。
●佐々木 ぜひとも必要ですし、期待しています。すでに臓器全身スケール研究開発チームでも、超音波集束シミュレータの開発が実際に行われていますし、これを利用しない手はありませんよね(笑)。先ほどもお話したとおり、この治療は画像でしか見ることができませんから、プロセスを見ていくにはシミュレーションが必要です。研究そのものが、シミュレーションなしにはできないといってもよいと思います。
●佐々木 あると思います。世界的な動向を見れば、もはややるしかない状況に来ていることは間違いないわけですからね。そのために、どれだけ安全性が確立されているかを「学」の方で詰めていけば、「産」も動き出すはずですし、それを実現させるのが、私の使命でもあると考えています。
BioSupercomputing Newsletter Vol.3