理化学研究所 次世代計算科学研究開発プログラム プログラムディレクター
茅 幸二
理化学研究所が、今日の「京」の開発主体となり、多くの公的研究機関や大学とともに、その開発と利用環境の整備に取り組むことになるにあたっては、内部の科学者会議で何度も議論を重ねました。当時、私はその会議の議長をしていました。物質科学分野をはじめ幅広い分野で、既にスーパーコンピュータを活用した研究が進展していましたが、ライフサイエンス分野ではまだまだという状況でした。そうしたなか、今後はライフサイエンス分野でもスーパーコンピュータによる研究が非常に重要であり、理化学研究所は積極的に取り組んでいくべきだとする提言をまとめるに至りました。プロジェクトのイニシアティブをとる文部科学省をはじめ、理事の方々もさまざまな議論をされていたと思いますが、理化学研究所が中核機関に決まる経緯には、こうした私たちの提言もひとつの契機になったのではないかと考えています。
スーパーコンピュータの開発とともに、それを最大限に利活用していくためのソフトウェア開発として、グランドチャレンジ・アプリケーションの研究開発が、プロジェクトの大きな目標のひとつになっていました。「次世代ナノ統合シミュレーションソフトウェアの研究開発」に関しては、ちょうど私が自然科学研究機構分子科学研究所で所長を務めていた2000年代初頭に、すでにスーパーコンピュータが導入され、ナノテクノロジーに関する理論家たちが集まって計算科学の共同研究が始まっていました。そのため、分子科学研究所を中心に、電子・原子・分子レベルからの精緻な大規模計算によってナノ物質の特性や現象を理解して予測につなげるグランドチャレンジのシミュレーションソフトウェア開発がスタートしました。しかし、ライフサイエンス分野に関しては、それまで計算科学的なアプローチはほとんど未開拓に近い領域でした。それでも、この分野で研究開発を進めていかなければいけないと強く主張され、グランドチャレンジ「次世代生命体統合シミュレーションソフトウェアの研究開発」の推進役を果たしたのが姫野龍太郎さん、そして泰地真弘人さんたちでした。その見識は正しくて、これはやらなければいけないということになり、13機関(最終的には15機関)が集まって研究開発体制が確立され、2006年6月に公募による文部科学省の審査を受けて、正式にスタートしたのはこの年の9月でした。私は、ライフサイエンスの専門ではなかったので、正直なところプログラムディレクターへの就任を依頼されたときは、少し悩みました。それでも、ナノテクノロジー分野の計算科学には関わったことがあったので、組織管理の面では多少なりともお手伝いができるのではないかと考えて、お引き受けすることにしました。2008年には次世代スーパーコンピュータ開発実施本部の副本部長も兼務することになり、結果的にはハードとソフトの両方から「京」の開発を見守ることになりました。
物質科学の分野では、誰もシミュレーションソフトウェアの開発研究に疑問を抱いていませんでしたが、一方のライフサイエンス分野に関しては、当初、理解を得ることもなかなか難しい状況でした。何といっても分子レベルから全身スケールまで扱う領域が非常に広く、まさにマルチスケールである上に、それぞれの階層においても、ベースになる確固たる理論がほとんどありませんでした。例えば細胞に関しては、もちろん理化学研究所内でも実験による研究は進められていましたが、とにかく細胞は複雑です。タンパク質などいろいろなものが含まれており、水のなかにこれほどまでものが溶け込むのかというくらい細胞内は濃度の高い溶液になっていて、これを正しく再現し、機能を計算することなどできるのだろうかと、誰もが疑問を感じるほどの非常に難しいテーマでした。しかし、結果的にはこの6年間で、ある程度の見通しがつくまでに研究が進みました。もちろん、実際に再現するためには、「京」の計算能力をもってしても追いつかない問題であることも、また事実ですが。
グランドチャレンジのプログラムディレクターに就任した当初、姫野さんたちと一緒に、たくさんのライフサイエンス分野のリーダーシップをとっておられる先生方にお会いしました。ところが、多くの先生方は素っ気ないというか、私たちがやろうとしていることに積極的な理解と支持を示していただけませんでした。わずか6、7年前ですが、当時はそんな状況だったのです。しかし、今や細胞レベルでもシミュレーション研究による理解が進み、分子レベルでもさまざまなタンパク質の機能が再現できるまでになり、開発研究は飛躍的な進歩を遂げています。脳研究の分野でも、「京」を使うことによって、世界で初めて本当の意味で脳らしい脳の機能がコンピュータ上で再現されるだろうといわれるまでに研究が進展しています。さらに、臓器・全身スケールでは、非常に優れた心臓シミュレーションが可能になり、血流シミュレーションでも全く新しい流体構造連成解析手法の開発によって、血栓ができる過程の再現をめざすまでになり、また、超音波治療機器の開発に結び付く生体の音響的シミュレーション研究も成果を挙げています。これらは医療や医療工学への貢献という意味でも、非常に重要な成果といえます。そして、データ解析融合研究の分野でも、当初はバイオインフォマティクス(生物情報科学)のデータをペタフロップスクラスのスーパーコンピュータで扱うことを疑問視する声もあったようですが、より手軽にゲノム解析ができる環境が整い、膨大な量のデータを処理することが求められるオーダーメード医療の時代が近づくなか、さまざまな処理の問題を含め、高い計算性能をもつスーパーコンピュータが役立つことが実証されました。
当初は、非常に複雑で幅広いライフサイエンス分野において、計算科学的なアプローチによって十分な結果が出せるのか、疑問を感じていた人が多かったと思います。そんななか、この6、7年間で、それなりの手ごたえと十分な可能性が得られたことは間違いありません。また、このような段階に至るまでには、ソフト開発の技術開発の中心として本プロジェクトを支えた、泰地さんをリーダーとする生命体基盤ソフトウェア開発・高度化チームの果たした重要な役割を、忘れることはできません。もちろん、複雑な生命現象や生命のメカニズムを明らかにするまでには、まだほど遠いわけですが、それでもこれだけの確かな成果が得られことは事実であり、グランドチャレンジのインパクトは大きかったと思います。シミュレーションという新しい技術が、これまでの生物学や医療に対して、まさに“一石を投じる”ことができたのではないかと感じています。
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建築中の計算科学研究機構の建屋(2009年4月) |
報道関係者に公開された建設途中の計算機室 |
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「京」完成記念写真 |
The 3rd BioSupercomputing Symposium(2011年3月) |
グランドチャレンジのもうひとつの大きな成果は、ライフサイエンス分野のシミュレーション科学が大きく成長するなかで、この分野に興味を抱いた若手の研究者が数多く参加し、幅広い研究分野との連携が進んだことです。こうした若い研究者たちは、今後の研究を支えていく非常に重要な人材になると、私たちは考えています。しかし、問題はこれらの若い研究者が取り組む計算科学を用いた新しい研究が、まだ十分に認知されていないことです。理解が進んでいる米国などでは、計算科学に取り組む研究者にもそれなりのポストがありますが、日本のライフサイエンス分野ではまだそこまで達していません。ポストに空きがあると、実験の人を入れてしまうという傾向は今も多く見られます。シミュレーション研究が、今後ライフサイエンス分野で重要な役割を担っていくことは間違いありませんが、これまでこの分野の研究をけん引してきた先生方には、まだ確信が持てないでいるように思えてなりません。また、研究費の面でも非常に厳しい時代ですから、そう簡単にポストを増やせないという事情もあると思います。それでも、少し無理をしてでも新しい分野を拓く若い研究者たちにポストをつくっていただきたいと、私は願っています。
2013年3月をもって、グランドチャレンジのプロジェクトは終了します。それぞれのチームで優れた成果を挙げながら、これまで築き上げてきた研究開発の流れをいかにして継続し、拡大していくか、それがこれからの大きな課題になると思います。また、ライフサイエンス分野というのは、これまで他の分野との交流や連携が非常に限られていました。しかし、グランドチャレンジでは、そうした垣根を越えて、さまざまな分野の研究者がひとつのテーブルについて、新しいライフサイエンスをつくりあげてきました。若い研究者たちには、これからもどんどん垣根を越えて、いろいろな分野の知識や情報を吸収しながら、新しい世界を切り拓いていってほしいと願っています。
いつの時代も、新しい分野を拓いていくのは苦しいものですし、たいへんなことも多いものです。しかし、今、確かにいえることは、ライフサイエンスは大きな変革の時代を迎えようとしているということです。これからたくさんのイノベーションが生まれていくはずです。グランドチャレンジはそのための滑走路のひとつであると思っています。一人でも多くの若い研究者たちが、この滑走路を活かして、新しい道を切り拓いていく努力を続けていってほしいと考えています。
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Protein DF ータンパク質全電子計算 |
Ca+ kinetics simulation(HepG2) |
BioSupercomputing Newsletter Vol.8