HPCI戦略プログラム 分野1 予測する生命科学・医療及び創薬基盤
理化学研究所 HPCI計算生命科学推進プログラム
プログラムディレクター 柳田 敏雄
理化学研究所 HPCI計算生命科学推進プログラム
副プログラムディレクター 木寺 詔紀
理化学研究所 HPCI計算生命科学推進プログラム
副プログラムディレクター 江口 至洋
(今号・次号の2回に分けて掲載)。
柳田(敬称略) 今、私たちがどのような夢を持っているかを一言でいうと、非常に複雑で、非線形かつ動的な系の代表ともいえる生命現象をコンピュータ上に再現できるようにする、これが最終的な目標です。例えば細胞のいろいろな働きを再現するためには、コンピュータに載せるデータがしっかりと揃っていなければいけません。当然ながらデータだけでシステムが分かるわけではなく、データを処理・解析するためのコンセプトが必要です。それらをきちんと用意して、それをベースにモデルをつくり、細胞の働きをコンピュータのなかで再現するわけです。もちろん、細胞だけでなく、組織、器官まで再現したいのですが、それは簡単なことではありませんから、まずはタンパク質の機能といった部分的な機能をしっかりと理解して、コンピュータ上に再現したいですね。さらにそこから創薬につながっていけば素晴らしいと思います。もちろん、タンパク質の複雑な動きがどのような仕組みで機能につながっているかも興味はありますが、まずタンパク質の働きが操作できるようになれば、創薬に結び付けることが期待できますからね。
木寺 私は、これまでずっとタンパク質のシミュレーションの研究をやってきたわけですが、HPCI戦略プログラムにおける目標も、最終的には柳田先生がいわれたように、タンパク質を計算機のなかでシミュレーションし、その振る舞いを一目瞭然という形で再現したいと思っています。しかし、材料分野などのように計算科学が進んでいる他の分野と比べると、生命科学はまだまだ未熟で、誤解を恐れずにいうならば、そもそも生命現象をシミュレーションすることは、限りなく不可能に近いことだというべきかもしれません。ならばどこまで可能なのか、私たちのチャレンジは、そこから始まったのだと思っています。これまでは、細胞の振る舞いを再現することは難しい、ならばもっと限定してタンパク質1つならどうかというように、できるところまで話を限定して、そこをきちんとシミュレーションしたときに何が分かるかというストーリーを作り出してきました。分かるところまで問題をどんどん小さくしていったわけです。その結果、何がおきたかというと、生物学でなく物理学の問題になってしまいました。最初は物理の問題だったのです。しかし、多くの“生物屋さん”は、そこに見向きもしてくれませんでした。では、生命現象と物理現象はどこが違うかということになります。例えばタンパク質1つを計算機のなかに置いてシミュレーションしても、何も起こらないんです。何かが起きるためには相手が必要です。その相手が働くためには、また別の相手が必要で、別の相手もさらに別の相手が……、というように延々と続く世界があって、それが恐ろしく複雑で不均質な細胞という環境のなかで繰り広げられているのです。かつては計算機の能力の限界のために、そこまで見ていくことができませんでした。ところが、だんだん計算機の能力が高くなるにつれて、再現できる範囲が空間的にも時間的にも大きくなって、小さく限定しなくてもよくなってきました。そこでようやく“生物屋さん”たちも関心を持ってくれるようになってきました。その段階のさきに、「京」を使ってもっと大きなもの、もっとリアルなものを見ようということになったわけです。ようやく実験をやっている生物学の研究者たちが認めてくれるレベルの研究になってきたということです。さらに、これまで「計算なんて関係ない」と思われていた医療や創薬の分野でも、「役に立つのではないか」、「『京』を使えば面白いことができるかもしれない」と言ってもらえるようになってきました。かつて不可能と思われていたことが、可能性が見えてきたというか蓋然的といえるくらいまで……、いや、これは言い過ぎかな(笑)。
柳田 「5倍よくしましょう」と言うと現実問題に縛られて悩んでしまうけれど、「100倍」と言えば、かえって軽い気持ちになれて、研究は進むそうです(笑)。
木寺 私たちがこれまで使っていた計算機のレベルが10TFLOPSでしたから、「京」の10PFLOPSは1,000倍ですから、より多くの研究者が乗ってくれるかもしれませんね(笑)。
柳田 冗談はさておき、確かに研究者が「面白い」と思うことは非常に大事なことだと思います。シミュレーションって面白いんだ、役に立つんだと思えば、それをベースにものを考えるようになり、研究が新しい方向に進んでいく可能性が生まれますからね。
江口 柳田先生が“夢”といわれましたが、私はこのプロジェクトを通して、これまで試行錯誤を繰り返しながらたくさんの実験をやってきた研究者が、「この実験はコンピュータシミュレーションで結果が分かるから、シミュレーションに任せよう」と言える時代になればいいなと思っています。例えば、自動車の安全性を調べるための衝突実験ってありますよね。昔は実際にたくさんの自動車を使って、角度や速度を変えて実験したそうですが、今はかなりの部分をシミュレーションでやっているそうです。それだけコンピュータシミュレーションの信頼性が高まっているということです。生命科学においても、同じようになってほしいと願っています。
柳田 おっしゃる通り、ものづくり分野などでは、今や実験の半分はシミュレーションですよね。実験といえばシミュレーションを活用するのが当たり前になっています。その点では、生命科学はコンピュータサイエンスが遅れているといえるかもしれません。しかし、これからは生命科学もそうなっていきます。すべて置き換えることは無理ですが、できる部分は実験をせずにパラメーターを決めてシミュレーションでやり、どうしてもできない部分を実験するというかたちで効率を上げていかないと、特に創薬ではアプローチできません、試行錯誤では組み合わせが多すぎますからね。
木寺 江口先生のおっしゃられたことに加えてもうひとつの大切なことは、生命科学が情報を活用したサイエンスとして成立し得ることを示すことだと考えます。それは「京」の利用によって、いままで限定されていた情報処理のあり方を革新し、情報のイメージそのものも変えて、いままでできないと思っていたことをできるようにすることです。その方向をよりはっきりと示して、可能性を大きく広げていくことが、私たちが取り組んでいるHPCI戦略プログラムのひとつの役割だろうと思います。「京」のような巨大な計算機資源を使ったデータ解析のあり方、プロトタイプを示して、その可能性と結果を大いに外に示していくことが重要ですね。それから、柳田先生が言われたものづくり分野などに比べて遅れているという点について、少しだけ弁護させていただくと、実は同じレベルの計算は私たちもやっているんです。ただそれだけでは生命の問題には間に合わない。だから小さな問題しか扱ってないように見える。例えば全身スケールのシミュレーションがありますが、人体も基本的には自動車と一緒のように見えます。ところが、鉄板や鉄骨の組み合わせでできている自動車と違い、臓器1つとってもたくさんの種類の細胞がやまほど集まっていて、しかも、熱や物質が出たり入ったりしながら化学反応している。何を見るかによって、計算内容も変えなければならない、とにかく非常に難しい問題です。
柳田 他の分野との決定的な違いは、基本方程式がないことです。パラメーターを探して、ある傾向をみつける、状態をみつけるということしかない。また、おこっていることが多要因であるということも問題です。生命科学は、対象が非常に複雑で難しいため、まだまだ時間がかかります。しかも、組み合わせが多いので、高い計算能力が必要です。でも、そこをクリアして、他の分野がやっているようなかたちまで研究が進めば、創薬などに貢献するいろいろなことができるようになるはずです。
江口 タンパク質の解析だけでも大変ですし、細胞はさらにいろいろなデータが含まれている、複雑で多様で非線形、そうした生命現象の難しさを熟知している柳田先生がプロジェクトのトップにおられ、どんどんメッセージを発信していかれることは、非常に重要なことだと思います。そうすることによって、新しいデータから新しい発想が生まれ、研究が進展していくと思います。さらに今後、分野1を盛り上げていくためには、それぞれの研究開発チームがお互いに問題を提起したり、新しい人たちが参加できるようなパスをつくり変えることなども必要になってくるでしょう。さらに、このプロジェクトは5年間ですが、6年目以降にさらに新しい動きが生まれて、この分野に参加したいという若い人たちが育つ、そういう仕組みづくりをしていきたいと思っています。研究の難しさはあると思いますが、新しい計算機パワーを活用して新しい成果をあげ、みなさんが活躍しているところを、生命科学のコミュニティや若いコミュニティに伝えて、研究のすそ野を広げていきたいですね。
柳田 計算機科学をやる人だけがこの分野を支えているのでなく、多くの生物学の研究者が計算機を物理的に活用している時代ですから、さらにそれを進めていくことがサイエンスそのものを向上させていくことにつながると思っています。しかし、いくら計算機は大事ですよと言ってもだめで、それをけん引していくもの、拠点となるものが必要です。その象徴的なものが、世界一の計算能力を示した「京」ではないでしょうか。そして、実際に「京」を活用したプロジェクトが動き出し、そこで素晴らしい研究が行われ、世界のトップを走る研究者が日本にいる、それが重要なことだと思います。
江口 「京」が世界一になった今が大きなチャンスですね。それだけに、先生方にはいい研究成果を出していただきたい。
柳田 研究資源が1位になったことで、計算科学的なアプローチ、日本の科学研究そのものが世界1位になれるのかということも当然、注目されるわけですからね。そのためには、やはりインターディシプリナリーな研究のすそ野を広げていくことが大切であると思います。例えば理学と工学がうまく融合していくこともその1つです。
江口 世界一の「京」を使って研究ができるなんて、すごいことです。本当にいろいろな研究者が参加して、お互いが刺激し合い、高め合える環境が生まれてほしいですね。
木寺 計算機の能力が高まることによって、私たちの分野の研究が進み、さらにもっといい研究ができる、それは確かです。「京」が使えるということは、研究にとって非常に大きなメリットです。だからこそ、使う人がプレッシャーを感じるのでなく、いい緊張感を持って、わくわくしながら研究ができる、そんな体制づくりも、これからの課題かもしれません。まあ、「結果を出せ、結果を出せ」と尻を叩くのが私の立場ではあるのですが(笑)。
江口 「面白いから、一緒にやろう!」という雰囲気も、ぜひつくっていただきたい(笑)。
木寺 実際に使ってみると、確かに「京」はすごいです。その速さを体感してしまうと、これはものすごい計算機だなと実感させられます。
柳田 今までと三桁違うと、量的な変化だけでなく、質的な変化を感じますよね。
木寺 これを使えばすごい結果が出るという感触は、みなさん持っています。だからこそ、逆にプレッシャーも感じているようです。私も、できるだけ「早く結果を出せ」と言わないようにしたいと思っているのですが、ついつい……(笑)
柳田 そういえば、先日の審査委員会でも、研究者の発表に対して「研究は楽しくやらないといけない。楽しみながら取り組んでいますか」という話が出ました。
木寺 責任はもちろんありますが、結果的に、楽しまないといい仕事はできませんからね。
(次号に続く)
BioSupercomputing Newsletter Vol.5